自己紹介
まずは自己紹介から。はじめまして。ユニークフェイスの石井政之です。
ユニークフェイスとは、顔にアザやキズなど目立つ症状のある人を意味しています。僕の顔には生まれつき大きな赤アザがあり、ユニークフェイスの当事者のひとりです。
1999年に『顔面漂流記』という自伝的ノンフィクションで単行本デビュー。その後、NPO法人ユニークフェイスの代表になり、当事者運動の先頭に立っていました。
それから20年経って、東海地方から首都圏に移住することに。新天地、川崎での生活を綴っていきます。
転居先は、知人の情報で決める
MAZARIBA川崎を知ったのは、20年ちかい付き合いの友人からの情報だった。その人とはユニークフェイスの活動で知り合ったメイクアップのプロ Aさん。2018年11月だった。
「急な話だけど、単身、東京に移住することになった。いい不動産物件を知らないかな? 定職があってもなくても、住めるところを探している」
「それなら、いい物件があるよ。わたしはそこのオーナー社長と知り合いだから、紹介するわ。とりあえず、その人とfacebookでつながって。詳しい情報交換は、その後で。面白い人よ。テレビ局の制作会社の社長をしていて、シェアハウスの経営もしている。石井さんと相性が合うと思う」
「さすが、話しがはやい。その人とは面識あるの? 」
「もちろん、最近まで彼の管理するシェアハウスに住んでましたから」
すぐにインターネットで、内田勉、という人物について検索して調べた。facebookでも友達申請して繋がった。
テレビメディアの仕事をしている人なので話しの展開が早い。
オススメの物件は、大田区の雑色と、川崎市の物件と説明を受けた。
今年の2月に、上京して、大田区の雑色の物件を見学することに。そこで内田氏と初対面の挨拶。
「はじめまして」とお互いに挨拶をするも、「facebookでお互いのことを知っているから、初めて会ったような気がしないなあ」と同じような反応になったのが可笑しかった。
SNSが普及すると、初対面なのに、そんな気がしない。こういうことはよくある。
自由人が集うシェアハウスの雰囲気に安堵
雑色の後に、川崎市のMAZARIBA川崎に移動。3階建てのビルまるごと、シェアハウスにしていた。建物は手入れが行き届いており綺麗だ。すでに入居している人が1Fの共有スペースの炬燵で談笑していた。
放浪の音楽家、フリーランスのITエンジニア、東北でシェアハウスを準備している若き起業家といった面々。炬燵に足を突っ込んで軽食をつまみながら雑談に。みな初対面であるが、ゆるい感じで気楽なトークをする人たちである。生まれも育ちも地元という人たちが多数派を占める地方都市からやってきた人間としては、実に嬉しい空気感だった。
僕は33歳から41歳まで東京に暮らしていた。フリーランスライターであり、NPO法人の代表者だった。出会う人のおおくは自由人か起業家だった。その当時の自由人たちとのコミュニケーションの空気感を思い出すことができて、古巣に帰った気持ちになれた。
「雑色と川崎、どっちにしますか。いま契約しても、後日でもかまいませんけど」と内田氏。
「そうですね。5分だけ考える時間をください」
書類を前に数分だけ考えた。
障害者と健常者の共存がテーマというシェアハウス。3階建てなので、車椅子障害者や重度の障害者は住める環境ではない。軽度の精神疾患や発達障害の当事者が住むというのが現実だろう。そこに中年を過ぎたユニークフェイス当事者が住むことになる。
日本の社会問題の最前線のひとつ、川崎の魅力
あわせて、下見に来る前に読んだ『ルポ川崎』(磯部涼著 サイゾー)の影響を受けていた。川崎市で発生した中一殺害事件をきっかけに注目された、この街の実相に迫るノンフィクション作品である。帯には 『ここは、地獄か? 工業都市・川崎で中一殺害事件をはじめ凄惨な出来事が続いたのは偶然ではない。その町のラップからヤクザ、ドラッグ、売春、貧困、人種差別までドキュメントし、ニッポンの病巣をえぐる!』とある。MAZARIBA川崎の立地は、このドキュメントの舞台のど真ん中、川崎市川崎区の産業道路沿いである。
内田氏も、川崎も興味深い。MAZARIBAの住民も個性的だ。
とりあえず、ここに住めば退屈することはないだろう。
契約書に署名捺印して、僕は川崎市民になることを決めた。